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嗚呼、泥沼回顧録

其の九拾八 ~クリスマスディナー~

山田晃士 ~クリスマスディナー~
思い出に残っているクリスマスディナー2景。

あれは二十歳のクリスマスイブ。
当時私はハードロックバンド『AROUGE』のボーカル。
その夜は浦和文化センターでの“ヘヴィメタルクリスマスパーティー”に出演した帰り道、
メンバー全員で横浜駅西口の大衆食堂で遅い夕食をとった。
まだメイクの落とし切れていない、汗も流せていない、長髪にロンドンブーツの奇妙な若者四人。
クリスマスデコレーションを纏ったきらびやかな街並みを横目に、
孤独なサラリーマンや、作業服の労働者に混ざって、不味いとんかつ定食をもさもさと食べた。
数時間前はライトを浴びてシャウトしていたのになあ…、なんて思ったりした。

あれは二十八歳のクリスマスイブ。
当時私は『ひまわり』でソロデヴュー直前。
その夜は横須賀の猿島でプロモーションビデオの撮影を終え、
スタッフ含め総勢15人程の男ばかりの集団で、極寒ロケによる疲労を引きずり、
埃まみれ、砂まみれの状態でデニーズに入店、遅い夕食を取った。
男達は一人ずつ注文をしていく。
照り焼きハンバーグセット、ライス大盛り、コーヒーで。
ジャンバラヤ、サラダセット、サウザンアイランドで。
ハンバーグ&エビフライ…。
全員の注文を女の子の店員が繰り返す。間違っていたりする。訂正したりする。
プロモーションビデオ撮影なんて初めての事だったので、何度も何度もNGを出した私は、
一刻も早くデニーズから帰りたい、と思ったりした。

公演や作品の内容よりも、そんなどうでもいい事を、私はかなりはっきりと憶えていたりする。

其の九拾七 ~絶唱あるのみ~

山田晃士 ~絶唱あるのみ~
布施明が好きだ。
特に『シクラメンのかほり』以前の作品が大好きだ。
小学五年ガレージシャンソン歌手の愛唱歌は『愛は不死鳥』であった。
意味も分からぬままに
♪あいは、あ、あ~、ふ~しちょお~う~♪
と変声期前の歌声を御近所様に披露していた。
晃士少年の心を魅了したモノ、それは初期の布施明のヴォーカルスタイルである。
デヴュー当時の布施明の唄は“絶唱”と呼ばれており、一曲終わる毎に倒れてしまうんじゃなかろうか、そんな歌唱法であった。
まさしく魂全開、喉も全開、振り絞る唄声に晃士少年の琴線は震えまくったのである。
幼い頃からドラマチックな表現に弱い私であった。

さて、昨今巷に流れている様々な音楽。
ヴォーカルスタイルも多岐に渡り、その時々の流行が存在する。
近頃ではファルセットを多用し、狭い口腔で共鳴させ、近鳴りする声、といった所か。
それに引き換え私の歌唱法は
●ビブラート深め
●巻き舌
●低音
●野太い
●遠鳴り
この様なスタイルはきっと時代錯誤も甚だしいのであろう。
だがしかし私は一向に構わない。
イタリアオペラよりもドイツオペラが好きだし、スキニ―よりもベルボトムが好きだ。
こういう唄い方が好きだし気持ち良いし格好が良い。
自分を曲げてまで流行に迎合する気はさらさら無い。
時代は螺旋階段の如く廻っている。
運が良ければ時代との幸福な邂逅が訪れる、それだけの事だ。
“絶唱”に更なる磨きをかけようと思う。

『愛は不死鳥』レパートリーに加えようかな。
とうの昔に変声期後なんだけどね…。

其の九拾六 ~音楽家としての宝物~

山田晃士 ~音楽家としての宝物~
15年前の冬、私はとあるレコ―ディングスタジオに居た。
そのオーナーの自宅を兼ねた瀟洒な佇まいは、何となく私の本牧の実家と通じる雰囲気があり、
そのせいだろうか妙に居心地が良かったのを憶えている。

当時私もスタッフも『ひまわり』に続くシングルの制作に行き詰っていた。
プリプロ、レコーディングを幾度となく繰り返しても、満足の行く作品は生まれずボツが続く。
紆余曲折、試行錯誤の日々。八方塞は火を見るより明らかであった。
私は徐々に覇気をなくし、無口になっていった。
そんな中、私が尊敬し憧れているプロデューサーの名が挙がったのだった。

六本木にある加藤和彦さんのプライベートスタジオ。
のべ3日程の作業であったが、今でもその時間をハッキリと思い出す事が出来る。

加藤和彦氏は常に穏やかであった。
優しく暖かく私を迎えて下さった。
そしてアドバイスは的確であった。

今思えば、私の状況を察し励まして下さったのだと思う。
自らのニックネーム“トノヴァン”の由来でもある“ドノヴァン”のCDを数枚、
それから御自身が使われていた宅録用の古いミキサーをプレゼントして下さったのだ。
『パパヘミングウェイ』『うたかたのオペラ』『ベル・エキセントリック』辺りの加藤和彦作品に影響を受けまくっていた私にとって、震えてしまう程嬉しい出 来事であった。

加藤和彦さんのスタジオで『今宵綺麗な二人』という楽曲が仕上がった。
これが当時の山田晃士スタッフとの最後の仕事となった。
そしてこの曲が世に発表される事はなかった。
私の力量不足が原因である。

半年後、私は一からやり直そうとフランスへ渡った。

加藤和彦氏の数限りないプロデュース業の中、3日間で1曲のみの新人シンガーソングライターの事はおそらく憶えてらっしゃらなかった事と思う。

私にとってあの時間は“音楽家としての宝物”である。

加藤和彦さま
宝物をありがとうございました。
私の中で決して色褪せる事のない場面です。

心より御冥福をお祈りいたします。

其の九拾五 ~怖いもの知らず~

山田晃士 ~怖いもの知らず~
小学校時代泳ぐのが得意だった。
五年生の時には自由型25mで横浜市中区の大会に出場、第三位。有頂天になった。
泳いでいると自分と水が一体化してくるような気持ちになり、いくらでもそうしていられた。
家族旅行で千葉の海に行った時の事、宿の目の前の海は遊泳禁止だった。にも拘らずそこで遊んだ。
歩いて20分程かかる海水浴場まで行くのが面倒だったのもあるが、遊泳禁止の海が魅力的だったのだ。

少年の冒険心をくすぐったのである。
今思えばかなり危険な行為であった。岩場で波も強い。潮の流れを読んで入水しないと岩場に叩きつけられて流血。私も兄も多くの血を流した。マスク、シュ ノーケル、フィンの三点セットで目指すはおよそ200m先の海面から突き出た大きな岩場。ちょっとした孤島である。そこに行きつく迄の海中世界は綺麗というより不気味だった。海底はごつごつした岩場、その隙間からイソギンチャクやら海藻やらが背を伸ばしユラユラ揺れている。絶対に足を突きたくない。細 長い海草が密集してジャングルみたいになっていて、なんとなく道らしきモノが出来ていたので、ドキドキしながらその道を泳いで行ったりもした。ウツボもい たしゴンズイもいた。足の届かない所でシュノーケリングを失敗し海水を飲込みパニック、まさしく怖いモノ知らずであった。
孤島に辿り着くとその手前は波もおだやかなプールになっており水深はおよそ5m、飛び込んで遊んだ。
父も時折孤島までやって来たが“一番高い所から飛び込んだ奴に500円”などとたいして心配していなかった御様子。咎める人もいない。イイ時代だったのか ワルイ時代だったのか。とにかく現代ではあり得ない景色であった。

先日何となく泳ぎたくなって屋内プールへと出かけた。
50m泳いだら倒れそうになった。

今、成人水泳教室のパンフレットを眺めている。
真剣に、真面目に、始めようかなあ…。

其の九拾四 ~放任主義~

山田晃士 ~放任主義~
今でこそ自他共に認める猫莫迦・有難迷惑なまでの猫っ可愛が りが得意なガレージシャンソン歌手であるが、その昔は生き物達に随分とひどい仕打ちをしてきた事実がある。

最近では見かけなくなったが、あの頃は縁日で“金魚すくい”ならぬ“亀すくい”というのがあった。もなかの皮でミドリガメをすくうのだ。すくったミドリガ メを私は何匹あの世へ送ったのだろう…。餌やり、水槽の掃除、 世話をするのは文字通り3日坊主。後は放任主義に徹する。母のお叱りも耳に入らない。ミドリガメというおもちゃに飽きてしまった訳だ。ある時弱りきったミ ドリガメを“たまにはお日さまの光にあててあげなくちゃ”と炎天下の石の上に放置。数時間後ミイラガメラ―が誕生していた。これぞ残酷物語である。まったくもって悔やまれる。

ハムスターというおもちゃにも飽きてしまった。さすがに餌、水は与えていたが、ゲージの掃除をやらなかった。やがて悪臭を放つようになる。どうにも我慢できなくなると掃除する。冬になればその感覚は長くなる。ある時 従兄妹のハムスターを預かった。気付いた時には数が増えていた。ゲージはますます悪臭を放つ。これぞ拷問である。そのうち奴らは自分でゲージの扉を開けら れるようになり逃走。押し入れの中で腰が抜けて歩けなくなっ ていたハムスターを発見した事もある。まったくもって悔やまれる。

中には放任主義でもたくましく育ったヤツもいる。

カブトムシの幼虫。コイツは買ったまま本当に何もしなかった。土の入ったプラスティックのケースの中にずっと放置。ある日茶色いサナギになってた。ちゃん とカブトムシの形をして。コアイ…。そうしたらそのサナギを突き破りまだ背中が白い状態のカブトムシが出てきた。ビックリして公園の樹に放してしまった。最後まで放置プレーだ。

トノサマガエルのオタマジャクシ。巨大なオタマジャクシである。やがて足が生えてきてかなりグロテスクな生き物となった。“キモチワリ~”と庭の池に放 置。2匹いたのだが共にトノサマガエルに成長した。お見事!それから毎年冬が終わるとその姿を庭で見かけた。変な声で鳴いてた。放置プレーが功を奏した訳である。


ところで私から生まれた楽曲達。放っておいたら育たないだろうか。
怖かったり、気持ち悪かったりすればいいのかな?
それならいっぱい生まれてるはずなんだけれどな。なかなか育ってくれないなあ…。
早く楽をさせてほしいものだね。

其の九拾参 ~薄灯り~

山田晃士 ~薄灯り~
熱帯夜のカルナバル。
夜の帳が降りる頃、オレンジ色の薄灯りに群がる群衆。
真夏の夜の夢は光と闇の狭間で描き出される。
眩し過ぎちゃ、駄目なんだ。


夜のディズニーランド。
入り組んだ通りのアドベンチャーランドは霧に煙っている。
つま先なんて見えないのに流れてゆく人の波。
はしゃぐ子供達。
迷子続出。

タイの屋台。
裸電球の陰影。
他に類を見ない旨さの焼きそばを頬張りながら、
トラベラー達は夢を見続けている。
足元にまとわりつく、踏まれても動じない野良犬達。
スリ続出。

ハイウェイを滑る夜行バス。
消灯前の仄かな車内灯。
ブックライトを頼りに読み耽るSM小説。
タイヤの音がカーヴに吸い込まれてゆく。
妄想続出。



その昔、中村義人(横道坊主)と山田晃士のキャンプサイトは、
それぞれの道具自慢によってコンビニ並に眩しかった。
真夏の夜の夢など見られる訳が無かった。


眩し過ぎちゃ、駄目なんだ。

其の九拾弐 ~予習不足~

山田晃士 ~予習不足~
二十五年前。
私がその青春を捧げたハードロックバンド『AROUGE』。
練習場所は道玄坂にあるYAMAHA渋谷店であった。
大体週二回位のペースで学校の放課後に練習。
終わる頃にはお腹ペコペコである。
帰り道、よくメンバーで腹ごしらえに寄ったものだ。
吉野家で牛丼を食べていた時の事。
無口そうなオヤジが入って来た。
店員「御注文は何に致しましょう?」
オヤジ「牛丼…。」
店員「並盛ですか大盛ですか?」
オヤジ 「牛丼…。」
店員「並でよろいですか?」
オヤジ「牛…。」
しばらくバンド内では
「御注文は」「牛丼」が挨拶となった。
ケンタッキーでフライドチキンを食べていた時の事。
挙動不審なジジイがヨタヨタと入って来た。
店員「御注文は何に致しましょう?」
ジジイ「鳥…。」
店員「何ピース差し上げましょう?」
ジジイ「トリ…。」
店員「1ピースでよろしいでしょうか?」
ジジイ「サ、サカナ…白身魚……アジ…アジ」
何処から海に向かったのだろうか?
しばらくバンド内では
「御注文は」「トリ サカナ アジ」が挨拶となった。

ところで今私はスターバックスで上手にオーダー出来ない。
何事も予習が必要という訳か。

其の九拾壱 ~ジューサーバー~

山田晃士 ~ジューサーバー~
JR渋谷駅改札内のジューススタンド。
最近よく利用している。
ジューサーで絞った生ジュースの店。
バナナジュース、パインジュース、メロンジュース…etc。
どれもシンプルで美味しい。
飲み干せば何だか懐かしい気持ちになる。
昔はこういったジューサーでジュースを売っている店がどこにでもあった。
私が中学・高校と七年間通った桜木町駅。
学校帰りに駅構内のスタンドで飲んだオレンジジュース。
美味しかったなあ…。
一緒にアメリカンドッグも食べた。
ゆで卵に衣をつけて揚げてあるタマゴドッグも大好きだった。
ほとんど毎日寄っていたのでお店のおばちゃんと仲良しになった。
ある日の事。
「お兄ちゃん、これ新発売しようと思うんだけど食べてみて。」
タマゴドッグに続くその店のオリジナルで、メンチに衣をつけて揚げたモノ。
「うん、おいしいです!」
次の日からアメリカンドッグ、タマゴドッグと並んでバーグドッグがケースに並び始めた。
ただ値段が高かった。
アメリカンドッグが100円、タマゴドッグが90円、バーグドッグは120円だった。
学校帰りに立ち寄るといつもバーグドッグが売れ残っていた。
本当は私はタマゴドッグが食べたかったりしたのだが、バーグドッグを頼んだ。
責任を感じていたのだ。
オレンジジュースを飲み干した。
やがてバーグドッグは姿を消した。
私は何だか気まずくなってそのスタンドに立ち寄らなくなった。
今や桜木町駅はみなとみらいの玄関口、華やかな駅である。
あの頃のうら淋しい面影は微塵も無い。
もちろんあのスタンドもとうの昔に消えた。
“あのオレンジジュースが飲みたいなあ…。”
渋谷のジューサーバーでそんな事を思い浮かべている。

其の九拾 ~愛の囚われ人~

山田晃士 ~愛の囚われ人~
公演後、私はもぬけの殻と化して帰宅。ドアを開けれ ば愛猫ベラミー〈♀雑種0歳7ヶ月〉が深夜にも関わらずお出迎え。

家に居る時はのべつ幕無し私の傍から離れようとしないベラミー。踏んづけてしまわぬ様、気を付けなければならない程に。シャワーから出ると必ず脱衣所で待っているのだから可愛い。

さて、私は自他共に認める無類の猫好きである。去年の夏に天に召されたMARIEは“もしかしたら連れて行かれるんじゃないか”と思う程、私に御執心〈猫 莫迦承知〉であったが、ベラミーの振る舞いはそれを凌駕している。猫のくせに私に依存〈猫莫迦炸裂〉しているのだ。

ベラミーは生まれつきの鼻炎持ちで、そのせいなのだろうか、猫特有の喜んでノドを鳴らすその音がヒジョ~に大きい。

“グルグルグル ゴロゴロゴロ…”

眠る時は私の顔にピッタリくっついてその音を発するので、聴覚上爆音となる。眠れたもんじゃない。その上くしゃみを連発して鼻水のシャワーを私に振りかけ る事もしばしば。

ようやく眠りについたのも束の間、日の出〈早朝5時〉と共に彼女はギターを弾き始める。器用にも6弦を歯に引っ掛け、引っ張り、弾くのだ。

“ビィィーン…”

開放弦Eの低音が私の浅い眠りを妨げる。

床から這い出し朝ゴハンを与える迄、およそ10秒おきのスヌーズ機能で、Eのアラームが鳴り止む事はない。何度でも何度でも繰り返されるのだ。

そして満腹になった彼女は再び私の枕元にやって来て“グルグルグル ゴロゴロゴロ ックション!”を繰り返す。

二度寝の私の夢を破るのである。

ベラミーの私への愛が深まれば深まる程、私は夢現に陥り、白日夢に悩まされる。

もはや私は愛の囚われ人なのかもしれない。

其の八拾九 ~有象無象~

山田晃士 ~有象無象~
かつて私は常に一冊のノートを持ち歩いていた。

そこに、
日々日常のタワゴト、ザレゴトを綴っていた。
詩を書き殴っていた。
恋文の下書きをしていた。
失敗の言い訳を並べていた。
身勝手な悪態をついていた。
訳の分からないイラストを描いていた。

決して誰に見せる事の無い、いや見せられない山田の“秘密”が“恥”が詰まった暗黒のノートは次から次へと消費されていったのだった。
まさしく“恥の書き捨て”である。

もしかしたら書くという行為によって諸々に踏ん切りをつけていたのかもしれない。辻褄を合わせていたのかもしれない。

だから新しいノートを探す時は、妙に清々しい気分になって、ガンビーやらトゥイーティーやらの可愛いキャラクターのノートを選んだりしていた。

後ろを振り返るのが大好きな私は、時折そのノートを覗き込み、憐れみに似た安らぎを得ていたものだ。



さて、いつの間にかノートを持たなくなっていた。
そう、PCがそれに取って変わったのだ。

部屋のデスクトップには以前にも増して、泥沼通信原稿、泥沼回顧録原稿、公演演奏曲目、デジカメスナップ、今気になるモノリスト、MC語録集、等々更なる“秘密”と“恥”が蓄積されていった。
これぞ暗黒の箱である。

付けて来た足跡が種類別にフォルダにまとめられ、クリックひとつで確認が可能になった。

後ろを振り返るのが大好きな私にとってPCは恰好の道具となった。



数日前の事。

PCが起動しなくなった。
うんともすんとも言わない。
暗黒の箱が開かなくなったのだ。

私の“秘密”と“恥”を呑み込んだまま。

私は途方に暮れた。
さっきまでの人生はモニターには映し出されず、私の脳を辿らなければ確認出来ない。

しかも記憶って曖昧、勝手。



何だか愉しい。


今しばらくは行き当たりばったりに生きてみようかと思っている。


それに飽きたらリラックマのノートを買いに行こうと思う。

其の八拾八 ~類は友を呼ぶ~

山田晃士 ~類は友を呼ぶ~
15年前の如月、
私はシングル『ひまわり』をリリースし、
ファーストアルバム『舞踏会』のレコーディングに明け暮れていた。
プロデューサーは小原礼氏。

日本にはいろんなプロデューサーが居らっしゃるが、
本来プロデュースとは制作に関わる一切合切を仕切る作業だ。

小原礼氏は本物のプロデューサーであった。
アレンジ、プレイヤー、ミュージシャンコーディネイト、
ムードメイカー、音像の決定、そして予算の振り分け迄、
全てに於いてその仕事は文字どおり“一流”であり、その上スマートだった。
何より人として格好良かった。

素晴らしい現場であった。
私は多くを学んだ。

全曲のミックスも終了、ホッと一息。
その日私と小原氏は仕上がった音を聴きながらアルバムの曲順を考えていた。
リラックスした雰囲気の中、談笑すら交えながら。

同日、腐れ縁のチンピラ詩人カオルが
1階下のスタジオでデモレコーディングを行っていた。
我々のスタジオに登場。
“初めまして小原さん、晃士の友人のカオルっていいます”
“曲順っすか、1曲目は『チョコレートギャング』で決まりじゃない?”
“いやあ、このギターソロジミヘンっすね”
彼特有のチンピラ口調でおよそ1時間。
最後に“山田をよろしくお願いします”
当時のマネージャーは眉間に皺を寄せていたが
小原さんは“山田君には良い友達がいるね”と言ってくれた。

同日、AROUGEのギタリストであった橘高文彦が
1階上のスタジオで筋肉少女帯のレコーディングを行っていた。
我々のスタジオに登場。
“初めまして、晃士の友人の橘高です、酔っていてすみません”
手にはビール。
“十代の時一緒にバンドやってたんです”
“楽器車でツアー廻って、客が全然入らなくって”
“俺が高いKEYの曲ばっかり創るから、こいつしょっ中喉潰しちゃって”
酒臭い口調でおよそ1時間。
最後に“晃士をよろしくお願いします”
当時のマネージャーは眉間に皺を寄せていたが
小原さんは“山田君には良い友達がいるね”と言ってくれた。

あれから月日は巡ったが、カオルも橘高も変わらない。
私の盟友であり、戦友だ。
あの頃所属事務所内では“山田晃士は友達が悪い”などと宣っていたそうだが、
お笑いだ。
小原さんの言う通りだ。

小原礼さんには14年逢っていない。
逢いたいなあ。

其の八拾七 ~回転扉の向こう側~

山田晃士 ~回転扉の向こう側~
ホテルニューグランド。
山下公園の真ん前にある横濱の老舗の名ホテルだ。
まだ米軍ハウスがあった頃、
みなとみらいが埋め立てされる前、
中華街がナンキンマチと呼ばれていた頃、
ニューグランドは横濱のシンボル的存在であった。

幼い私が親父に連れられてニューグランドへ出かける。
回転扉をくぐるとそこは異国の地、古い洋館宛ら。
アーチ状の高い天井、手動式扉のエレベーター、
石の壁、中庭の噴水、床には鮮やかな色の絨毯。
その佇まいはわたしの胸をワクワクさせたものだ。

親父の仕事関係のクリスマスパーティー。
私は毎年それを心待ちにしていた。
二階のボールルームは着飾った人々で溢れかえり、華や かで、
言ってみれば社交界。
ビュッフェ式の食事。好きなものだけをおかわりした。
ホワイトソースのチキングラタンが本当に大好きで、
当時こんなに美味しいモノはないと思ってた。
今でもその味が忘れられない。

中学に上がってからは滅多に回転扉をくぐらなくなっ た。
時折親戚の集まりで行く程度。
縁が無くなったのだ。

それが何故か今年は正月から何度も足を運ぶ事となっ た。
墓参会、法事、親父の喜寿祝い、哀しかったりめでた かったり
…。
親戚や知人、友人で食事をした。
今では近代的な新館がメインとなっているニューグラン ドだが

旧館の会場、レストランに集った。
幼い頃の思い出が蘇る。
胸をワクワクさせた幼き日々。
もしかしたら私の美意識の一部の要素となっているのか もしれ
ない。
ホテルニューグランド。
いつの日かガレージシャンソン歌手のディナーショー を。
勿論古めかしい旧館の二階ボールルームで。